眩しい日差しに照りつけられながら、男と女が差し向かいで崖に立っていた。数メートル下
では、日本海に相応しい荒波が飛沫を上げている。
男は以前にもここに来たことがあることをとりとめもなく思い出していた。あの頃は暖かかっ
た。今は寒い。季節も、関係も。
押し黙った女に対して、男は口火を切った。
「なぜ今更ここに? 思い出の場所だけど、仲直りのシチュエーションとしてはちょっと」
あるいは、これは彼女の意趣返しなのかも知れない。そうだとすればとんでもない話だった。
逆恨みも甚だしい。
少し前にあるきっかけから、男の不埒な噂話が立ち上がったことがあった。根も葉もない嘘
だったが、聞きつけた彼女が盛大に誤解した。白昼堂々と糾弾された結果、目撃した者達にま
で「噂は本当だった」と誤解が広まって、二次的被害まで出てしまった。
それについては散々やりあったし、さらなる余波を広げもしたが、とりあえず解決はした。
冤罪を贖罪するが如き理不尽な日々を思い出し、男はげんなりした。
ともあれ終わった話だった。わざわざ蒸し返すことではないはずだ。
足下を見下ろすと、花を付けていない草が目に入ってきた。チメグサだ。またの名を、
(オミナエシ)
彼は特に花が好きなわけではなかったが、女性の気を引くには打って付けの話題ではあるの
で、その辺りの知識はいくらか持っていた。
前に来た時には、オミナエシが綺麗な黄色い花を咲かせていた。当時、どんな話をしたかま
ではっきり思い出せる。
『オミナエシの名前は、女性を凌ぐ美しさから来ている、という説があるんだって。“女を圧
する”、“オンナアシ”――“オミナエシ”というわけ。僕にとっては君がオミナエシだな、
他の誰も目に入らない』
歯の浮くような台詞だが、今でもつっかえずに淀みなく口に出来る自信はあった。ここで彼
女に語って聞かせるためにいちいち調べて、綿密にシミュレーションして、何度も何度も繰り
返し覚えた言葉なのだから。
あの暖かな日々が遠い。なのに、今はどうしてこんなにも寒々しいのか。
「あの時の約束、覚えてる?」
「……ああ」
一瞬言葉に詰まったのは、思い出せなかったからではなく、長い沈黙の後に急に話しかけら
れたからなのだが、果たして彼女はどちらと取っただろうか。
「いつか二人が死ぬようなことがあれば、この日本海で一緒に海に帰りたい」
男は誓いの言葉を可能な限りなぞって答えた。
まだ付き合い始めたばかりだったはずだが、海葬とは随分悲壮な誓いをしたものだ。しかし、
当時を思い出すといつでも芝居がかっているのはなぜだろうか。色々取り繕っていたのだ。
彼は内心で苦笑した。
「そう」
確認するように頷いて、彼女はまたしばらく黙った。
「すれ違いもあったと思う。それはもういいの。誤解だったってわかったから」
彼女はうつむきながら呟いた。
「でもね、あの嘘を聞いた時、私あなたのことを凄く恨んだ。憎んだ」
男は思わず手を差し出しかけたが、女はそれを拒絶するように後ろを向いた。その背中に伸
ばすべき手も、かけるべき言葉も出てこなかった。
「……その気持ちが、まだ消えてない」
小さな声だったが、波音にかき消されることなくはっきりと男に聞こえた。
一体何の話だ。男は狼狽えた。彼は今更ながら、彼女がハンドバッグを抱えていたことに気
が付いた。一段と寒気が増した気がした。
「でもあなたとは別れたくない」
女は振り返りながらそう言った。ゆっくりと、女が男に歩み寄っていく。ハンドバックから
何かを取り出しながら。
男の目はそれをしっかりと映していたが、意識の焦点は別のところにあっていた。
オミナエシにまつわるいくつかのエピソード。そのうちの一つに“能”の演目があった。題
名「女郎花」。妻が夫を誤解して自殺し、夫もその後を追う。中世日本版『ロミオとジュリエッ
ト』だ。
「だからお願い――」
近付く彼女を見ながら、ふと、その話を思い出した。
彼はこれが自分にとっての「オミナエシ」なのだろうかと思った。
『愛は盲目/おもいやむ』了