そこは暗闇だった。濃淡のない黒一色の空間。
視界が妥協を一切許さない色で埋め尽くされている。瞼を開いていても、閉じていても、見
えるものは変わらなかった。
男の名は遠藤滋。気が付いた時にはここにいた。
いつまで待っても、彼の目が闇に慣れることはなかった。微細な光すらなく、夜目が利かな
かった。
真の闇。完全なる閉所。
閉所――そこは息苦しさを覚えるほどに狭い空間だった。空間と呼ぶことすら憚られる。強
いて言うならば隙間だろう。
手足を突っ張っても、ろくに体が伸びきらないうちに壁があった。腰から手を上げると、腹
の辺りで止まる。後ろに手を引けば肘が当たった。横や頭上も同様で、しゃがむことが困難な
ため下はよくわからなかったが、上下左右に三十センチほどしか余裕がないようだった。
起きて半畳、寝て一畳、という言葉が脳裏を過ぎる。実際にはもっと狭く、寝ることなど到
底出来そうもないが。
遠藤は顔の前に両手をかざし、じっと見つめた。勿論、漆黒の中で何が見えるわけでもない。
指先から熱が奪われていくのがわかる。曲げてみても、とっくに痛覚は切れて感じなかった。
肉厚のゴムを掴んでいるような感覚。
きっと、爪は剥がれ、皮膚は破れ、肉が断裂しているだろう。もしかしたら骨まで露出して
いるかも知れない。曲げた拍子に、渇いた血がパリパリと音を立てて剥がれ落ちた。
勿論、それは単なる想像で、麻痺しているに過ぎない可能性はあった。ただ付着した土が落
ちただけで、血など一滴も出ていない。見えない以上、何も断言することは出来なかった。だ
が、遠藤はその可能性を頭から締め出した。
最早体力は尽き果て、気力も底が見えてきている。別の感情に寄りかかってやっと立ってい
られる状態だ。
燃え尽きた焚き火の奥で、まだくすぶるものがある。楽観はその火を容易く消してしまう。
熾火のようなその感情を絶やさずにいることが重要だった。
怒り。理不尽な扱いへの怒り。
漆黒の中で息を凝らしながらも、遠藤はタールのような情念を怒りに注ぎ続けた。
なぜ。なぜこんな目に遇わなければならない?
(俺が一体何をした)
腹立ち紛れに壁を叩こうとするが、手の負傷に思い至って止める。捌け口を失った感情が体
内を駆け巡った。それは嵐のように吹き荒れ、怒りを大きく燃え上がらせた。
頭が熱で浮かされる一方、片隅で冷静に考えている部分もあった。
どこかに閉じ込められているらしい。その事実は動かない。
ぐるりと周りを囲む土で出来た壁――と言うより縦穴か――は、思いの外脆かったが、素手
で外部まで掘り進められるほどではない。
掘り進めることは出来なかった。
感覚のなくなった両手が、その事実を告げてきている。
意識が覚醒してから、一体どれくらいが経過したのだろうか。数分ということはあり得ない
が、数十分だろうか? それとも数時間?
少なくとも、日を跨いだということだけはないだろう。
まったく身動きの取れない垂直の縦穴は、その実、地面がほとんどわからないくらいの角度
で傾いているようだった。何から何まで、体力を奪うように出来ている。こんな場所では一日
だって保たない。
ここを造ったやつは――自然に出来た裂け目という可能性は無視した――よっぽどの根性悪
らしい。イカれてる。
遠藤は見たこともない相手を、偏執的な狂人だと決め付けた。
(何が狙いだ?)
この状況が人為的に造られたものならば、なんらかの目的に沿っているのは間違いない。
自分を閉じ込める、その目的。それがなんなのかが判明すれば、脱出の糸口になるかも知れ
ない。
とはいえ、無明の縦穴には手がかりどころか、手がかりを探すための明かりすらなかった。
手詰まりであることを認めなければならなかった。
ここには何もない。物も、仕掛けも、何もなかった。
ただただ時間だけが経過していく。
(何もない?)
目的があって閉じ込めたのに、その後の行動が一切ないということ。それはつまり、監禁す
ることそれ自体が目的だということにならないか。
もしもそうならば、脱出の手立てはない。
さらに空虚な時間が過ぎた。
座ることも、屈むことすら出来ず、立ち続けて、最早下半身の感覚すらなくなった。手足は
すでにそこにないかのように思える。
いや、見えないから確かめられないだけで、実際に腕や足がなくなっているのかも知れない。
そもそも最初から手足は存在したのだろうか。
いや、それならば、そもそも遠藤滋という人間の存在を疑うべきだ。
自分自身への懐疑。
生まれてこの方の全て。
行いの全て。
してきたこと、されてきたこと。
遠藤は不意に気付いた。
(これは罰なのか?)
この縦穴を仕立てた者は、自分を罰しようとしてるのだろうか――いや、そうに違いない。
ならばその望みはなんだ? 処罰者の希望。罪の償いの求めているのか?
遠藤は咽せながら口を開いた。喉が渇ききっていた。
「つまりは恨みか? あの男の家族か?」
密閉された縦穴で、誰が聞くわけもない。聞く手段も。だが、償いを求めているなら、どこ
かできっと聞いているはずだ。
遠藤の言葉に、論理の破綻と狂気の片鱗が宿る。
「あれはあいつが出資を渋るから、つい弾みで殴って……死なせてしまった。殺すつもりはな
かった……いや。そうだ。殺してしまう気だった。保険金をかけて……」
何者かのリアクションを期待して、しばし押し黙る。しばらく待っても、縦穴にわだかまる
闇は蠢かなかった。物音もしなかった。
遠藤は掠れた声で呻いた。
「じゃあ、あの色気女のことか……? あれは向こうから誘ってきたんだ。だから連れ込んで、
――」
正気を失った告白は、遠藤の喉が潰れるまで続いた。
およそ千件にも上る罪の告白は、遂には彼の原体験にまで遡った。
(虫だ……)
それは喋っているつもりで、しかし声にはなっていなかった。酸素を求める金魚のように、
無感動にパクパクと唇だけが動く。
(虫を捕まえた……
カミキリムシだ……大きな顎だった……
その顎で噛まれた……キイキイうるさい威嚇音も疳に障った……
だから……穴を掘って……埋めたんだ……)
その時の、土に塗れた手を覚えている。
埋めた土を、上から、この足で、何度も何度も踏み均した。
突然、
ドスン
巨大な地鳴りとともに、縦穴が上下に大きく揺れた。
壁から土の破片が剥離して落ちる。
回想から我に返った遠藤は、手足を突っ張って耐えようとした。地面が激しく振動し、手が
滑って壁を掴めない。
ドスン、ドスン、ドスン――
数度暗闇の中で翻弄され、遠藤は突然浮遊感を味わった。
目を見開く――いつの間にか閉じていたらしい――真っ白い光に視覚を潰された。開ききっ
ていた瞳孔が光量に耐えられずに悲鳴を上げた。
焼かれるような痛みが眼窩から脳髄を直撃し……そこで異変は終わった。
反射的に強く瞑った瞼の下で、遠藤は目を凝らした。
漆黒の闇は晴れていた。が、外に出られたという実感はなかった。停滞した空気が、まだど
こかの中にいることを示している。
久しく機能していなかった鼻が、腐臭を嗅ぎ分けた。
そして遠藤は、唐突に理解した。
これは刑罰だ。
全ての罪に対して、正しく償わなければ終わることのない刑罰。
一体いつになれば終わるのか。終わった先に何が待っているのか――
気が遠くなる心地を味わいながら、遠藤はゆっくり瞼を開いた。
二番目に古い罪を掬い上げるために、自信を記憶の井戸へと下ろしながら。
『シングル・ヘル/Преступление и наказание』 了