遠くで囁きが聞こえる。
……なきゃ……
それはどうやら女の声のようだった。
……らなきゃ……
誰のものだろう。聞き覚えがある。
「……帰らなきゃ……」
今度はすぐ間近で聞こえた。その言葉に頬を張られたような気分で、びくりと身を竦める。
結局のところ、それは彼女自身が無意識に呟いたものだった。その事実が体に染み込んで理
解に至るまで、たっぷり数秒間を要した。
彼女は立ち尽くす自分を発見した。
心の中はぽっかりと穴が空いたように空白だった。それは頭上に広がる真っ青な春空にも似
ていた。
ほとんど反射的に周囲を見回す。瑞々しい新緑が目に眩しい。一見して雑木林のようだった。
その風景に見覚えはなかった。
道らしい道もない。
彼女は一人で森のただ中にいた。
地面はうっすらと下草に覆われている。振り返ると、自分の足下へ向かって足跡が続いてい
た。それはぴったりと彼女の靴の下に収まり、そこで途切れていた。歩いてきた時についたも
のだろう。
どこかへ向かう途中だったのだろうか。
もう一度、ぐるりと辺りを見渡してみる。
やはり、見覚えはなかった。
しばしその場で逡巡してから、彼女は踵を返した。覚えのない森の中で、道行きがわからな
いのならば、戻ってみた方がいいだろう。見知った景色があれば、何か思い出せるに違いない。
漫然とまっすぐ進むより良さそうに思えた。
それに、ここまで歩いて来られたのなら、少なくとも予期しない悪路で怪我をすることもな
いはずだ。
道を引き返す。
一端指針が立つと気持ちが落ち着いて、今まで見えなかったものが見えてきた。
即ち疑問。
なぜあんなところにいたのか。いつからああしていたのか。それともう一つ――どうしてこ
んなに落ち着いているのか。
自問自答する。いや、問う一方で、答えることは出来なかった。
(……わからない)
何も思い出せなかった。自分自身では平常心のつもりでいるが、実はパニックになっている
のかも知れなかった。
彼女は改めて自分の服装を見やった。
春の陽気に反するような丈の長い装いで、袖や裾が絞ってある。肌の擦れ具合からすると、
中に薄手のインナーも着ているようだった。ヒラヒラしたファッションとは異なる、統一感の
ある実用的な様相。
ハイキング、という単語が思い浮かんだ。
それをそのまま頭の中で繰り返す。
(ハイキング……)
ハイキング――その途中。
なんとなく、収まるところに収まった、という気がした。それなら森の中で迷っていても、
取り乱さないのも頷ける。
しかしそうなると今度は、野山を歩くことは慣れているはずなのに、ここがどこで、何をし
ていたのかわからないのはなぜなのかが気がかりになった。
きっと何かがあったのだろう。迷うことになった根本的な理由が。
ずきりと、実際に痛んだわけではなかったが、額の裏で頭痛の前兆のような不快感が広がっ
た。
わけもなく焦燥感が胸中に広がる。
一体何があった?
視線を戻すと、相変わらず木々の放つ緑や、幹の茶色、木陰が続いている。
そこに交わらない色があった。
(……あれは?)
鮮烈な青。空の欠片のようなそれ。
彼女は足跡――向こうから続いている方だ――近くに落ちていたそれを、屈んで拾い上げた。
それはひとひらの花びらだった。付け根に向けて、薄く白いグラデーションがかかっている。
花びらはそれ一つきりではなく、足跡に沿ってぽつぽつと落ちていた。
(なんの花だろ……)
知っているような気がした。よく思い出せないが、何かが引っかかった。
彼女は胸騒ぎに突き動かされて、今度は小走りで足跡を辿り始めた。
急がなければならない予感があった。
早く、早く行かなければ。
それがなぜかはわからない。ただ、どうしようもなく、止めどなく何かが失われていく実感
があった。
(誰かが――待ってる?)
ちらりと、脳裏をかすめるものがあった。
それは顔だった。ディテールの欠けた人物像が、あっという間に消え失せる。それは大事な、
大切な人だったという想いだけが心に残った。
次に浮かんできたのは、人物ではなく情景だった。
部屋だ――自分と彼の。明かりの消えた窓の向こうに夜景が見える。こちらの左手を取って、
恭しく捧げ持った指輪を差し出してくる。森とオーバーラップしたその情景は、意識した途
端に虚空へ溶けて霧散した。
緑の濃淡の中に、もうネオンサインは微塵も見えない。その代わりに、空色の花びらが風に
乗って舞っている。
(あの人が!)
彼女はいつの間にか、小走りではなく走り出していた。
肘を上げ、膝を上げ、一歩でも遠く、一秒でも早く。頭の奥で未整地の野山を走ることへ警
鐘が鳴っているが、構わなかった、
進むごとに、――に近づくごとに、記憶が戻ってくる。
それは確信だった。妄想か、錯覚だったかも知れないが、一顧だにする気はなかった。
実際、映写機を早回しにするように、脳裏のスクリーンにかつて見た光景が次々に現れては
消えていった。
花びらが目の前を過ぎる。
彼女は朧気に思い出した。
彼と二人で笑った。
自分一人で泣いた。
約束。
そして結婚。
(結婚しようって。その前に、結婚前の最後の記念に行こうって……!)
怒濤のように押し寄せる記憶の波に飲まれて、彼女は一種の錯乱状態に陥った。
(でも、いきなり駄目になって……! あんなことに……!)
彼女の乱れる心そのままに、時制と人称が滅茶苦茶に入り乱れ、言葉にならずに感情の奔流
となった。
急がなければ。
(急がなきゃ)
戻らなければ。
(戻らなきゃ)
帰らなければ。
(帰らなきゃ)
あの人のところへ。
(あの人の待つ場所へ)
…………誰が?
不意に名前を思い出した。
あの花びら、青空を凝縮したような花冠を持つ花の名前を。
花の名はエゾムラサキ。
その、花言葉は――
(そんなこと、今はどうでもいい……)
彼女は遂に足跡の終端に辿り着いた。
開けた視界を埋め尽くすように、一面に青があった――エゾムラサキの群生地だ。青空が地
面にあるように錯覚するほど咲き乱れている。
見事な満開だった。だが、彼女はそれが目に入っていないように、呆然と佇んでいた。
彼女にそれが見えていなかったわけではない。意識に入れていなかっただけで。
花畑の向こうには、一転して視界を遮る崖があった。ほとんど垂直と思えるほどに切り立っ
た崖だ。風雨に晒されて研磨され、のっぺりしている。見上げれば、上の方に真新しい断面が
覗いていた。
それは、崖の先端が崩れたせいだった。
剥がれ落ちたそれは、瓦礫となってエゾムラサキを浸食していた。
(そんなこと、どうでもいい……)
彼女はよろよろと、それに近付いた。
今度こそ、彼女は自分の名前を思い出していた。
続木かすみ。
今、目の前で、小さな花弁の青い花に囲まれて、瓦礫に頭を預けるようにして倒れている女
の名前だ。
かすみは、自分の体を見下ろした。
それは――どう見ても死体だった。死体としか思えなかった。
触らなくてもわかる。
だって、
(私は――私がここにいる……)
自分の存在を確認するように、かすみは手をかざして見た。すると、すうっ、と白い手から
色素が抜けていった。手の向こう側、倒れた自分の体が透ける。
嘘だ。
二人で来る予定だったのに、急に都合が付かなくて、一人で来ることになって。
嫌だ。
結婚の約束をした彼がいるのに。
こんなの、あんまりだ。
まだしねない。
しにたくない。
しぬ……
(いやだ、私、まだ……死……!)
すとん、と力が抜けて膝から崩れ落ちた。
しばらく膝立ちのまま、どこを見るともなく俯いた。
やがて俯きながら立ち上がると、彼女は踵を返した。頼りなげな様子で歩き出した――足跡
の残る小道へと。
踏み分けられたエゾムラサキが、ぱっと花弁を散らす。
彼女は俯いたまま、ぶつぶつと何事か呟きながら歩く。
誰もいない森に、足音と花びらだけが散らばって行く。
……なきゃ……
……らなきゃ……
……帰らなきゃ……